何が与えられているかにこだわるわたし

「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」

この一節を読んだ時、心の中がとてもざわついた。

それは…

他の誰かになりたがっているわたしだから。

自分には負のものしか与えられていなかったり、特別なものを与えてもらっていないという感覚がある。不公平感がある。

だからこそ自分以外の人間がキラキラして見えるし、素敵だって思えてしまう。

この人には、こんな素敵なものが与えられているんだ、私もそうなりたいって思ってしまう。
あの人のあれさえあれば、私だってキラキラした人になれるはずってね。

そこに注目があるからこそ、自分にも本当は特別な何かすごいものが与えられているはずと思いたい自分がいて、それを探し求めて、他人と自分を比較してしまう。

そして他人と比べることで、特別なすごいものが見つからない自分に焦り、やはり私は無能な人間=つまらない人間=尊敬に値しない人間と思ってしまうのかも。

子育てにおいても、我が子には愛されたいし、尊敬される親でありたいし、軽視されたくないという思いが、ついつい横の関係を望みつつも、無意識に縦の関係を見出してしまっているのかもしれない。

上から目線で、子どもに私が教えてあげるという関係を持ち、外的コントロールを使うことで、強制的に尊敬させようとしているのかも。こわい、自分…。

何かをもっているから、何かができるから私が特別なわけではなく、私というこういうブラックで、面倒くさい人間もこの世には1人しかいないという意味で私は特別な存在なんだよね、きっと。

私が大切にする友達は、ただただ存在が素晴らしいんだよね。だから一緒にいたいと思うんだった!

今の私だからこそできることがある。

伝えられることがある。

「交換ではなく、更新。」意識していこう。

そしたら本当の意味で、ありのままの自分を愛せるのかな?



自分へ…ゆうゆはゆうゆでいいんだよ。

ありがとう、皆様(^-^)

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